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LA:2010-02-03 12:39 |
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友達がプロデュースするLA Art Showで。
アメリカ各地から集まったおよそ100件の有名ギャラリーが、ご自慢の作品を出展販売します。
スクラップと電話線でつくられたこの馬の置物が、一番目をひいていました。欲しかったけれど、家には置く場所がないので、残念。 |

パブロ・ピカソの作品。
こういう線のものは見たことがなかったので、おもしろいなあと感激しました。
お値段は、およそ一千万円。 |

会場は、ダウンタウンのコンベンションセンターの一番大きなスペースでした。はじのほうにつくられたインストレーションが、とてもユニークで、こんな部屋で瞑想したら宇宙空間まで飛べるかな。 |
毎日、感謝することがたくさんあり、恵まれた環境で暮らさせてもらっていると感じていても、フッと胸の内に孤独を感じることがあります。心をオープンにしてなんでも話せる素敵な友達も居てくれて、ひとりで時間を過ごすことも好きなので、一人暮らしをしていて淋しくなるというのとまた違った孤独感です。
私は、長い間、自分の内に潜むこの孤独感の存在を知りながら、それを取り除きたいというよりも、それは自分の一部なのだろうと思うようにして暮らしてきました。
ところが、昨年あったいくつかの出来事からも、その孤独感が謙虚に現れるときの環境に同じような条件が重なることに気がつきました。たとえば、オーディションを受けるとき、セットで仕事をしているとき、または、知らないひとばかりが集まるパーティーに参加しているときなど、周りに人はたくさんいるのに、そのなかで、何故かひどく淋しく心細く感じるのです。
エックハート・トーレの『The Power of Now』を読み返しながら、私の場合は、自分でこさえたセルフ・イメージ(虚栄の自分)を演じようと一生懸命になっている私と、ほうとうの私(真我)の間にギャップがあるということに気がつきました。そして、真実の私のほうが、体の奥底へ押し込められてしまっているときに、ディスコネクティッド/切り離された状態で、それが孤独感を生む原因だったのではないかと察しました。
いろいろと思い起こしてみると、この真我によって自分がドライブされているときは、心持ちも穏やかで、物事はスムースに進み、何をしていても楽しいといった体験ができます。昨年末にしていただいた東京での茶話会のときなど、こちらのケースのよき例だったといえます。
反対に、「褒められたい」「認められたい」という意欲に走らされて、背伸びをするかのように虚栄の自分を演じるときは、かならず「もし、うまくいかなかったときは...」という不安と恐怖心が付着してきます。そして、ものごとのプロセスも山あり谷ありですんなりと進まずに、ストレスを抱えて、最後には落胆して、傷ついたり、自信をなくしたりする結末を迎えることがあります。必ず、こうした結果に終わるというわけではありませんが、自分の経験からも、こうなる割合は高いのではないかと考えます。
ということは、感情は、自分がほんとうの自分でいるか、それとも虚栄の自分を演じているかを、本人に知らしめてくれるバロメーターとなってくれているわけです。
どういうわけだか孤独を感じるときには、真我と再びコネクトしてひとつになることを意識したいです。そして、そこからジワジワと沸いてくる喜びをエンジョイできれば、大成功です。
今年は、「愛をする自分」で居られることを意識してゆこうという目標をたてました。そして、まず、なによりも最初に愛してあげなければいけないのは、これまで長い間ないがしろにしてきた「ほんとうの自分」ではないかと痛感しています。
「自分を愛する」ということは、日本で生まれ育った私にとっては、とても掴みにくいコンセプトです。でも、今の私は、それをすることによって、ボディ・マインド・スピリットのバランスがとれて、これまで自分でこさえて自分に課してきた限界の壁や、超えられないと思い込んできた心の障害も、自然消滅するだろうということを感じています。
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