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LA:2009-11-28 02:07 |
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最後にお邪魔した家のご主人が、デザートの用意をしているところ。手前から、ピーカン・パイ、パンプキン・パイ、アップル・パイ、チョコレート・プディング・ケーキ、レモン・ケーキ。何種類でも好きなケーキをすきなだけ皿に盛り、さらに、その上にバニラ・アイスクリームを盛って食べます。前の家でもピーカンパイをいただいたのですが、こちらでもチョコレート・ケーキとレモン・ケーキを7ミリくらいの厚さに切ってもらい、アイスクリームと一緒にいただきまいした。甘さが控え目でおいしかったでした。 |
昨日は、感謝祭でした。
感謝祭は、アメリカとカナダだけで祝うものだそうで(カナダの感謝祭はひと月早いです)、その由来は、17世紀始めにイギリスからアメリカに移住して来た人々が、収穫を祝って集まり、神様に祈りを捧げることから始まったとのことで宗教的な意味合いが強かったようです。現代では、家族や親しい友達が集まって祝う家族行事のようなもので、家族と一緒に集うために帰省する人が多いので、日本のお正月に似ている感じがあります。
一般的に、テーブルには、ターキー(七面鳥)が一匹まるごとサーブされます。付け合わせには、マッシュポテト、グリーンビーン(いんげん)、グリーンピース、甘く煮た人参、スートポテトとマシュマロをオーブンで焼いたもの(脳シントウを起こすかと思うくらい甘い)、クランベリーのソースに七面鳥を焼いたときに落ちる油で作ったグレイビー・ソース、デザートにはカボチャのパイ等が並びます。
私は、ここ4,5年は、親しい友達の家での感謝祭のターキー・ディーナーに呼んでいただいていて、今年は、さらに2件、はしごをしてきました。こういう機会にしか会えない人々に、久し振りに会えるのも楽しいですが、どこもそれぞれテーブルセッティングや、部屋の飾り付けに個性が出ていて、そうしたものを見るのも楽しみのひとつです。
私はお酒があまり飲めないので、アメリカ人が集まる食事会には、たいてい日本製のケーキやベアード・パパのシュークリームを持ってゆくことが多く、おいしいのでいつもとても喜ばれます。今年は3件回る予定でしたので、運びやすい物をと考え、それぞれの家に赤ワインを持ってゆくことにしました。感謝祭のディナーに持ってゆくトラディショナルなワインだと聞いたので、ちょっとスパイシーでフルーティーで香りの深い、カリフォルニア産のジンファンデル(Zinfandel)を選びました。
自分から好んで赤ワインを飲むことはありませんが、鼻が利くせいか、試飲をさせてもらうと、おいしいものとそうでないもの、何の香りがするとか古いワインかどうかとかなどの違いが分かるので不思議です。ワインの世界は奥が深くておもしろいですね。もう少し飲めたら楽しいだろうなあとも思いますが、アルコールをたくさん吸収できない体質なので残念です。以前、ワインとチーズの組み合わせを楽しむ試飲会に参加したことがあったのですが、空腹でいったせいもあり、最後には、酔っぱらって具合が悪くなり苦しい思いをしたので、それから飲んでいません。
これは昨年の感謝祭のときの話ですが、食事を楽しんでいるときに、それぞれ感謝することをシェアしましょうということになり、言い出しっぺから順番に発表することになりました。みんな、家族や親族、親しい友達がこうして集まって食卓を囲めることを喜び、夫婦でいたカップルは、それぞれのパートナーを褒めそやし感謝の気持ちを伝えていました。
私はどんなことを言ったのかはっきり覚えていませんが、たぶん、毎日の感謝の言葉をそのまましゃべったような気がします。「I’m grateful for everything that I have. I have my family to love, friends to cherish, and this life to enjoy. そして、今年もみんなと一緒にこうして食卓を囲めることに感謝します。」といったようなことだったかもしません。
それから一年が経って、今の自分がほんとに感謝することはなんだろうと、心を静めて思い起こしてみました。
丁度、去年の秋頃から、内側にシフトが起こったのを感じられるようになりました。ほんの少しですけれど自分の意識がひらかれたような感覚があり、以前のように感情に左右されてもどっぷりと感情に呑み込まれないで自分の置かれた立場を観察できるようになりました。
これたいしたことないと思われるかもしれませんが、心配性で苦労性で、ドラマ・クイーンの私には、奇跡のようなことで、とても有り難いことだと感じています。そして、不安なことや嫌なことを思いめぐらせて使う時間とエネルギーを、嬉しいことや感謝の気持ちを表現することに費やすように切り替えられるようにもなりました。
自分の内に優しさを見いだせるようもなり、他人のちょっとした優しさに触れただけで、幸せを感じられるようになりました。意地悪だったり欲の深い人もたくさんいますけれど、そういった人たちと時間を過ごして嫌な経験をしたとしても、その経験から必ず学ぶことがあるということも理解しました。その渦中にいるときは分からなくても、後になって、「このために起こってくれたことだったのね」と分かるときがやってくるものです。
今年は、何度も『人間万事塞翁が馬』の教訓を思い出すことがありました。全ては意味があって起こっていることで、私がこの人生のなかで出逢う人はみんな、私の魂の成長を促すために現れてくれる人たちなのだ。そう思えるようになると、今まで起こった全ての出来事に感謝、そして、今まで出逢った全ての人々に感謝できるようにもなります。そして、それぞれの出来事や人を、「いい」「悪い」と判断することは全く意味のないことなのだということにも気がつきます。
無駄なシーンがひとつもないこの人生の脚本を、自分がひとりで書いているとはとても思えません。そこには、人智を超えた大いなる力の恩恵が注がれているからでしょう。
肉体をもって生まれた私たちは、人間はひとりで生まれてきて、ひとりで死んでゆくと考えがちですが、この大宇宙をこさえた完全なる意識体によって生み出され、生きているときもずっと見守られていて、死んだときはまた元に戻ってゆくだけなのです。つまり、五感ではしっかりと確認できなくても、私たちはみんな同じものから生み出された同質のものであり、全てはひとつだということです。
人はひとりぼっちになることはないのです。「私は独りで淋しいなあ」という自分の内の思いが、糸を紡ぐかのように「独りで淋しい」という経験をこさえてゆくのです。自分の現実は、自分の思いがつくってゆくものなのです。
肩書きや学歴、お金などでは決して買うことができない、感謝や思いやり、愛、優しさ、勇気といったものを自分の内に養ってあげることによって、自分の心持ちが豊かになり、物の見方や受け取り方も変わってきます。すると、いままで「コップに半分しか残っていない」と見ていたものが、「ああ、まだ半分もある」という経験に変わるわけです。そして、私の現実も、どんどん豊かになってゆくということです。
感謝の思いがもつ波動は、真っ直ぐに天に届くんだよという人があるように、自分の放つ波動がつねに高く輝きのあるものかどうか、大いなる力/ハイヤー・セルフとちゃんとつながっているかどうかを意識して毎日を過ごせるようになれたら素晴らしいなと思います。
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